ガーゼ

大人になっても少女で痛いの

鉱物身体

〇〇女子だとかそうゆう言葉が流行る前、わたしは違う意味で鉱物女子だった。

きっと幼少期から透明なガラスの破片や真っ白い石ころみたいなものが好きだったのだろう。効果云々とゆう事はさて置き、わたしはパワーストーンが好きだった。綺麗で硬くて冷たく、美しいと感じた。その石がどうやって出来て行くのか、どの様な環境で作られるのか、どの様な意味付けがされているのかなど調べれば調べる程に、わたしは石にのめり込んで行った。

時を同じくして、わたしは食べ物を消化する行為をやめた。

元々あまり食べない方だ。習っていたクラシックバレエの所為で食べたい欲求があっても我慢が苦ではなくなっていた。食べても嘔吐するから平気と思っていた。消化前に吐く行為も馴染んでいた。最低限の量すら食べなくなって、体重は30kgを切って、摂食障害になった。

わたしは鉱物になりたくてなろうとしていた。

このまま骨だけになったら、綺麗で硬くて冷たくて美しいものになれるだろう。そうなれば誰にもわたしを傷つける事なんて出来ない。

しかし骨はボロボロになり、カリウム欠損と低血糖で身体はダメになっていた。見た目の美しさと引き換えに、強度が無くなってしまった。こんなのは意味が無い。簡単に傷つけられてしまう。そう思って、わたしはまた食事を摂り始めた。

結局わたしは鉱物にはなれなかった。

鉱物になれなかったわたしにはいつの間にか、とても強くて誰にも傷つけることが出来ない部分が出来ていた。

骨粗鬆症でスカスカになってしまった骨の間に空間が出来た。その空間はきっと誰にも傷つけることが出来ない気がした。

目に見える美しさを手放し、自己を確立出来た時だった。

気がつけばもうわたしは石に執着しなくなっていた。

 

 

 

サリンジャーのように

踊ることが出来なくなって

描くことも弾くことも困難になって

最後には言葉とゆう最も嫌いな文化しか残らなくなってから

 

他人との諍いを嫌い、皆が良くなる様にと世界平和をずっと夢に見て、わたしはきっと良い子だったのに、いつの間にやら自死という世界の終わりを望んでいる。

人間であることの憂鬱は、文化を否定されて始まってしまった。

16の頃にダンテを読んで「愛とは最も辛い事なのだ」とゆう刷り込みに真面目に反応してなお愛を享受してしまった。わたしは阿保だ。

本能など認められない。そんなものは本当に邪魔になってしまっていた。いつの間にかただの面倒事にしかならなくなった。

わたしは踊る為の身体が動かなくなって何をして良いのかわからない。その時から死がだんだんと近づくのを感じた。これが死というものと理解した。

割合と利口な子どもだったのだと思う。不都合を避けて日々を過ごしていた。素行が悪くても勉強はなんでも出来、走るのも速く、絵も上手く描けた。いじめにあうこともなかった。

この歳になって結婚してもそれは同じで何も変わっていない。

衝突を避けて本当を話すことをやめて仕舞えば平和だ。

自分の望む世界を捨て、夢も無くして、口を開くことをやめた。

 

生きてるって傷ついて

スポーツ見ようと漫画見ようと動かない利き手と足に絶望する。

中学生のときから売春するときやインターネットのヒトと会うときは、四肢切断されて海外に売られてしまうって想像してから出かけて行った。死ぬことよりも絶望する事に耐えられるのかそれよりも価値がある事なのかちゃんと判断していた。

痛いのは今でも平気だ。

不自由と創る手が動かなくなる事の方がよっぽど嫌だ。死ぬことに恐怖を感じたことはない。

どんなに精神が悪くなってもパニック障害PTSDは一切ない。パニック障害は死ぬのが怖いからなる症状だからね。そもそも生きたいと思ったことがなかった。辛い現実世界から逃れたくて腕を切った。顔にタバコを押し付けた。誰にも必要とされたくなかった。「死なないで」って言われて「悲しい」って言われて生きたいと思うのが当たり前だと思われて諦めるしかない。わたしに本能なんて睡眠欲求しかないのに。

わたしにとって恋愛は一度すれば理解出来たから。最初から、お終いまで。必要とされて自分を初めて肯定出来た。良い体験だったんだ。売春を悲しんでくれたりと身体さえも尊重してくれた。プラチナの指輪をくれた。

 

何にもなくなってしまった。理由もなくなった。丁度良く病気にもなった。必要なものはもうない。

 

 

薬のこと

医学業界では

鬱が流行って、人格障害アダルトチルドレンが流行って、いま現在、発達障害が大流行している。もう少ししたら双極性障害辺りが流行り出しそうな気配だ。
これら精神病達の定義は曖昧なもので医者の派閥や勉強の幅で変わってくる。
世間では、医者を薬屋にするなんてとんでもない事だ!と、医者を崇拝する人間が未だ未だ多いけども、そもそも精神病になるとゆう事をもっと自分で掘り下げなくてはいけない訳で、その手伝いとして薬を選択することを医者とやっていかなければ治るわけがない。
精神病以外も同じだよ。
多かれ少なかれ皆が発達障害を持っているし、気分障害も持っている。バランスの問題なのだ。偏り過ぎてしまえば具合が悪くなる。
人生が一回しかないのならば薬も医者もいろいろ試してみるといい。自分の事を掘り下げていければ具合もちょっとはよくなるよ。

一人称

「わたしがもし男だとしても好きなのか」
過去に一度だけわたしを好きだと言った男の子に聞いたことがある。
答えは「それは難しいね」だった。それはそうなのだろう。彼にはわたしが女性にしか見えて居なかったのだから。
小学校高学年になるまで一人称に「わたし」を使う事が出来なかった。それまではきっと微かな自尊心を保つ為、誰に何を言われようと「わたし」を使わなかったのだろう。小学校高学年になり、わたしの微かな自尊心がいろいろな事で崩壊した時、わたしは初めて一人称「わたし」を使った。
それから10年くらい後になる。初めて男性を好きになる事が出来たのでその彼に聞いたのだ「わたしが男だとしても好きなのか」。
きっと彼にとっては下らない事だったかもしれない。だけど「難しい」は妥当な事なのだろうなと今でも思う。
FTMのわたしが男性にそのような問いをしたのは後にも先にもこれだけだ。

 

売春

わたしは中学生のとき、自分の意志で買い物をしたくて売春してCDを買った。
価値観が歪んでいるのかと思った頃もある。自尊心が無いと言われる。でもよく考えてみればどっちもそうではなかった。わたしはわたしの身体で仕事をして自分の意志で欲しいものを買っていた。他人も身内も、自分の身体をそんな風に扱うんじゃ無いよ。と言う。性を売り物にしちゃいけないよ。そう言う。しかしセックスというモノをわたしは神聖化できない。性欲は汚いモノなんでしょ?ねえお母さん。
矛盾の中で育ってきた。母親は今でもわたしのことを恋人か何かだと思っている。父親でなくわたしにだけ感情をぶつけてくる。わたしの貴女ならわかってくれるでしょう?と。
わたしにはわからない。わたしはそうゆう障害だよ。ヒトの気持ちに興味が持てない障害だよ。俗物を嫌悪してしまう病気だよ。
ずっとゴミ箱として育てられた。そういうもんだと言われて生きてきた。疑問符は無視され否定された。
買い物。母親と父親は財布が完全に別だったので母親は欲しいモノを買い、わたしは母親の趣味を強要させられてきた。わたしの欲しいものは全て「わたしは好きじゃ無いから」といわれ、欲しいものは自分の稼ぎで買いなさいといわれ続けた。
食事すら。仕事で夜遅くに帰って来るのでわたしはいつもおなかが空いていた。ひもじいという感情が凄く嫌いだった。わたしは動物性の脂が嫌いだったのに。きっと食べたくないものなんか沢山あったのに。海藻類もたくさん食べて今では甲状腺がダメになってしまった。食べたい時に与えられたことは無く、食べたくないものも食べることを強制させられていた。
欲求を全てコントロールさせられていた。
摂食障害自傷癖について母親は、わたしを悪者にする為にそんなことをするのでしょうと吐き捨てた。
わたしは母親になにをもらえたのだろう。
生きたいと思えない心と誰からも遠い性格、傷だらけの身体だったのだろうか。

罰ゲームなんかじゃないよ。

指で喉を押さえての嘔吐ではなく、自らの腹を殴って嘔吐していたらしいと知ったのは二十歳過ぎくらいに仲の良かったバンマンから聞いた話だ。

わたしは二十二歳よりも前の記憶が曖昧でうまく思い出すことができない。

当時通っていた病院の帰り道にしょっちゅう彼の家に寄って眠った。摂食障害で30キロ迄落ちたわたしはそれ以上に痩せなければという強迫観念で食事を全て戻していた。口にするものもカロリーの低いものばかり。低いのに戻すのだ。消化器が吸収してしまうことがこわい。終わりの無い飢えに発狂しそうになりながら。今のように情報も乏しく嘔吐のやり方も野蛮だったのだろう。腹を殴れば吐けると思ったのだろう。風呂場で腹を殴って洩らす呼吸を彼は聞いてきたのだろう。わたしを助けたいとでも思ったのだろう。わたしは彼に怒られる事は一度もなかった。すぐにいろんな所に飛び回ってしまうわたしをなだめて慰めた。

二十二歳の時、閉鎖病棟保護室で医者に「あなたは要らない。必要ない。」と繰り返され、わたしはわたしがわからなくなってしまった。

網目の先の空を見ては衝動に任せて歌を歌った。当時の友人が言ってくれた言葉を覚えている。

「人生は罰ゲームなんかじゃないよ。その歌声がヱイちゃんにはあるもの。」